MiNE Sagawa Profile

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佐川 峯 Profile

佐川 峯(さがわ みね)
生年月日:1919年(大正8年)12月24日
出身地:東京都
東洋音楽学校(現東京音楽大学)卒

1934年(昭和9年)

15歳の時に銀座のダンスホールの裏口から友人の清水泰二(たいじ)君※ともぐり込んで初めて聴いたバンドネオンの音色で身体が動かなくなるほどの感動を覚えた。
従業員につまみ出されてしまったがバンドネオンの虜となり、翌日、銀座の楽器店「十字屋」で現物を見に行き、帰るなり、父上に「バンドネオンを買って下さい」と頼んだが「そんなに高いものを買えるか。何を考えているのか」と叱られて相手にされなかった。

※清水泰二さんのご両親様は有名なオペラ歌手だった。
バリトンの清水金太郎さんとソプラノの清水静子さんはお二人ともジョヴァンニー・ヴィットリオ・ローシーの門下生で原信子、田谷力三、木村時子、堀田金星、高田雅夫、原せい子たちと浅草オペラ全盛期を支えていかれたオペラ歌手。
大きな反響を呼んだ大正11年の「カルメン」の配役はカルメンが清水静子、ドン・ホセ田谷力三、闘牛士エスカミリオ清水金太郎、ミカエラ安藤文子、スニガ(ツニガ)柳田貞一と豪華な顔ぶれであった。
音楽に囲まれた環境の中で泰二さんはアコーデオン奏者として、また、アコーデオン製作会社の経営者として活躍された。CRW_5327.jpgこれは泰二さんから贈られた「コンセルティーナ」(バンドネオンの初期)で150年ぐらい前に作られた楽器。 一度、この楽器で演奏したいと思っているそうです。 泰二さんの形見の品で大切な宝のひとつ。

佐川少年はバンドネオン欲しさに大連に嫁いでいらした姉上を頼って東京→神戸8時間、神戸→大連 定期客船吉林丸で片道2泊、合わせて10日間行方不明のひとり旅をご両親や学校に無断で決行した。
姉上から「買って上げるから帰りなさい」とさとされてようやく帰京。
父上からはこっぴどく叱られ、学校でも先生に顔が腫れるほどぶん殴られた上に教室の外に立たされたことを今でもはっきり思い出す。
数週間待っても買ってもらえる気配が無かったため、再び、ご両親や学校に無断で大連に。
佐川少年の熱心さに根負けした姉上がたまたまバンドネオンを売りたい人が見つかったこともあり、当時では家一軒が買えるほどの値段だった300円で買ってもらい、まさに天にも昇る幸せな気持ちでバンドネオンを大事に抱えて帰京。
その時も父上と学校の先生から叱られ、殴られた筈だがバンドネオンを買ってもらった嬉しさいっぱいで他のことは思い出そうとしても全く記憶から飛んでしまって何も覚えていない佐川峯さんである。

1935年(昭和10年)

16歳からバンドネオンを独学で練習
当時、東洋音楽学校ではクラシック音楽以外をやっていることが知れると有無を言わさず即退学処分とされていた。
そのため、佐川峯さんはバンドネオンを学校に隠れて練習しつづけた。

1939年(昭和14年)

IMG_888.JPG大恩人の川崎章さんと (1946年頃の写真)生涯の恩人、バンドネオン奏者川崎 章(あきら)さんの紹介で関東州大連の「ハピノス」で小林正之さん(ヴァイオリン)がリーダーをされていたバンドに入れてもらい第3バンドネオン奏者としてプロデビューした。

第1バンドネオンは戦後も活躍された坂本政一(まさいち)さんであった。
「君から給料をもらいたいよ」と言われながら無給のプロとして懸命に演奏をし続けていた。半年以上も無給で演奏して、ようやく初めての給料50円をもらったときの嬉しさは今でも鮮明に思い出す。大学卒の初任給が30円の時代だった。

1940年(昭和15年)

バンドリーダーの小林正之さんから「勉強になるから行ってこい」と言われ李香蘭さんのバンド・メンバーとして満州巡業。
先輩ばかりのそうそうたるバンド・メンバーの末席で弾くことに一生懸命。
李香蘭さんはホントにきれいな女性だった。戦後になるまで李香蘭さんは美貌の中国人女優・歌手と信じ込んでいた。
李香蘭さん20才、佐川峯青年21才のことであった。

テレビドラマ「李香蘭」
LinkIcon(上戸彩さん主演のテレビドラマ「李香蘭」のサイト)

当時は演奏を具体的に指導するとか教えるということは一切なくて、「先輩が弾くのを見て盗め、身体で覚えろ!」と言われるだけで、あとは、見よう見まね、独学で練習していくのが当たり前だった。
「勉強になるから行ってこい」との小林正之リーダーの言葉が今思えば後輩に勉強のチャンスを与え、育ててやろうとする素晴らしい指導法だったのではないかとしみじみ感じられ、このときの小林リーダーの配慮に心から感謝している。


佐川峯さんがプロになりたてのある日、すでに一流歌手だった淡谷のり子さんが映画と映画の「幕間」のアトラクションで専属バンド(リーダーはヴァイオリンの大山秀男さん)の伴奏で歌を唄われることを知り、音楽学校の先輩にご挨拶するため佐川峯さんは「日活館」の楽屋に淡谷のり子さんを訪ねた。
淡谷さんににこやかに迎えられ話しているうちに、「坊や、私のバンドで弾かない?」と軽く言われた。尊敬する大先輩の言葉に緊張した佐川峯青年は直立不動で、「はい、是非やらせてください」と返事をした。
そのうち、淡谷のり子さんの表情が段々と真剣になり「本当に入るんだね。約束だよ。約束を破ってはいけないよ」、「いついつ東京においでなさい」と言われ心臓がはじけるほどの嬉しさであった。

IMG_0748.JPG向かって右はバンドネオンとフルート奏者の久保さん (上海の「ニュー・タイガー」にて)その後、「ニュー・タイガー」(大連)、「明星」(奉天:現瀋陽)、「フロリダ」(ハルピン)などで演奏活動をした。

各地をまわっていた時期に、ハルピンの路上で乞食のように粗末な服装をしたロシア人が演奏していたアコーデオンの「こんな演奏が一体どうやってできるのだろうか」と思うほどの素晴らしさ、また、キタイスカヤ通りのクラブでロシア人が伴奏していたピアノとヴァイオリンの桁違いの演奏を聴く機会があった。彼等と較べると、自分のバンドネオン演奏が如何にひどいものかを思い知らされ、大きな衝撃を受けたことは忘れ得ぬ思い出であり、佐川峯さんにとりバンドネオンの奥深さを実感した異次元のような体験であった。
今にして思えば、ロシア革命で逃げ出した多くの文化人がハルピンにも多くいて世界レベルでも超一流の演奏家たちが貧しい生活をしながら演奏活動をしていたのを見かけたのではないかと思う。

1941年(昭和16年)

プロ入りの恩人である川崎章さんが上海の「ブルーバード」というダンスホールのバンドをやめるので佐川峯さんにバンドネオンを引き継いで欲しいと推薦され、さて、困ったのは佐川峯青年。淡谷のり子さんとの約束があるし、プロ入りの恩人からのお誘いを断ることも出来にくい・・・と散々悩んだ末に、「ブルーバード」で川崎章さんのあとを継ぐ方を選び、終戦後の1946年(昭和21年)に日本へ引き上げるまで演奏活動を続けた。
当時、上海には「ブルーバード」以外にも「ニュー・タイガー」、「極東」、「ライオン」というダンスホールがあって盛況を博していた。

1946年(昭和21年)

東京目黒の雅叙園にあった「コーヌ・コピア」で「オルケスタ・ティピカ・ルナ」バンドで第3バンドネオン奏者として演奏した。
タンゴバンド以外にジャズ・バンド(ハット・ボンボンズ)とハワイアン・バンド(バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ)が専属バンドだった。
焼け野原と化した東京にタンスホールが多くできていたことに驚いた。

1948年(昭和23年)

新橋の「フロリダ」のオープンに合わせて「オルケスタ・ティピカ・パンペーラ」バンドで演奏。
IMG_0739.JPG「オルケスタ・ティピカ・ルナ」バンド。 右端が佐川峯さんバンドネオン3名、ヴァイオリン3名、ベース、ピアノ、ドラム各1名、ヴォーカルは井上ふさこさん(のちに黒木曜子の名前でコロンビアに所属)だった。
バンドマスターは「オルケスタ・ティピカ・ルナ」でピアノ奏者だった鎮目(しづめ)典幸さんだった。
なお、「オルケスタ・ティピカ・パンペーラ」の名付け親は音楽評論家の的場 実(まとば みのる)さんであった。
「フロリダ」では、ジャズ・バンド「スター・ダスト」も専属していた。のちにドラムで一世を風靡したジョージ川口さんが「スター・ダスト」で修行中であった。

IMG_0892.JPG桜井 潔 楽団その後、桜井潔さんが声をかけて下さり、当時、日本一と評判の高かった桜井潔楽団に移ったところ、大連でプロ生活一年生の時の第一バンドネオンの坂本政一さんがいらした。
のちに「東京キューバンボーイズ」のリーダーになられた見砂直照(みさご なおてる)さんがベースを弾かれていた。
佐川峯さんは第2バンドネオン奏者として全国ツアーを含む3年間の演奏活動をした。

IMG_0893.JPG真ん中が佐川峯さんバンド・リーダー桜井潔さん(ヴァイオリン)の後でピアノの近くに顔が見えるのが、のちに「東京キューバンボーイズ」のリーダーになられたベースの見砂直照(みさご なおてる)さん。

1950年(昭和25年)

IMG_0626.JPGブエノスアイレスの老舗ライブハウス「BAR SUR」の絵入りプレートIMG_0742.JPGピアノの立光映二さんと佐川峯さんの演奏。 左の柱のそばの口ひげの人が一緒にツアーをした歌手のエンリケ岩尾さん。
博多で「佐川峯とオルケスタ・ティピカ・タブラダ」を結成。
佐川峯さん31歳の時の「独立」であった。
博多、神戸などで演奏活動を続ける一方、佐川峯さんがピアノの立光映二さん、歌のエンリケ岩尾さんと3人でアルゼンチン・ブエノスアイレス市のクラブ「イタリアーノ」、「ラ・クンパルシータ」,
「バー・スール」(BAR SUR)」等で演奏活動を続けていて、本当に楽しくて有頂天になっておられた時期だったと。

1976年(昭和51年)


博多中心に25年間活動したあと、前年の広島郵便貯金ホールでの公演でお世話になった方々にご挨拶がてら「途中下車」した広島に活動拠点を置き、30年以上が経過してしまった。

レストラン「ワイン・ハウス」で9年間、バンドネオンのソロ演奏をした。
「ワイン・ハウス」には多くの芸能人や音楽仲間が次々とたずねてくれ、久しぶりの佐川峯さんのバンドネオン演奏に感動し、喜ばれたこともよき思い出。

コマーシャルに出演されたディック・ミネさんとスポンサー会社の社長が店を訪ねられたときには永年ディック・ミネさんとステージで一緒になり親交のあった佐川峯さんとの再会をお互いが大喜びされる様子に社長が驚かれたり、たまたま「ワイン・ハウス」に来られたときに昔話に花が咲き、それが縁で、高峰三枝子さんから「別れのタンゴ」の伴奏をして欲しいと言われ、店での演奏を臨時休業として鳥取県米子市に駆けつけたのは1990年(平成2年)であった。

IMG_0762.JPG高峰三枝子さんのCDジャケット IMG_0765.JPG「別れのタンゴ」の歌詞高峰さんとの出会いは1949年(昭和24年)に佐川峯さんが桜井潔楽団に所属して全国ツアー中の途中、たまたま東京に帰ってきた時、先輩からコロンビアの歌のレコーディングがあるのでお前行ってこいと言われて行ったところ、それが忘れもしない高峰三枝子さんの「別れのタンゴ」の歌の伴奏であった。
東京のスタジオで演奏していたら、とても美しい女性が入ってこられ高峰三枝子さんだった。

さすが女優さん、きれいだなあとみとれてしまった佐川峯さん29歳のことだった。
1990年(平成2年)、米子から帰京されて間もなく逝去されたことが悲しい思い出です。

IMG_882.JPG九ちゃんとの写真IMG_881.JPG由紀子夫人にLPを手渡されたときの写真見習い時代から顔見知りの坂本九ちゃんが「炎のように」のLPの録音が済んだことを知り、
「先輩、LPができあがったら必ずくださいね」
と頼まれた数日後に飛行機事故で帰らぬ人となり、LPを九ちゃんに渡すことができなかった悲しい思い出もある。(1985年)
LPを由紀子夫人にお渡しした時のことも忘れられぬ思い出。

「炎のように」(LP)は素晴らしいバンドメンバーが揃い、タンゴに馴染みのない人が聴いても楽しめる曲を選び、ソニーの六本木のスタジオでの録音も超一流だったこともあり、今でも充実感のわいてくるLPだそうです。
(録音:1984年、限定制作:1985年)

原爆記念行事や神戸震災の慰霊コンサートなどにも積極的に参加。

IMG_0776.JPG1999年から2000年にかけて、歌手の冴木杏奈(さえきあんな)さんの伴奏のためハワイ・ヒロ市の「ライフケアセンター」で演奏したり、国内で船上コンサートもされた。

2002年(平成14年)

ソロ活動のほか、ヴァイオリンの三木登志江さん、ピアノの三木健嗣さんご夫妻と「タンゴ・トリオ・アモーレス」を結成し3年間の全国ツアーを実施。

2007年(平成19年)

ヴァイオリンの上野眞樹さん、ピアノの伊藤智恵さんと「トリオ・ロス・エンバハドーレス」(タンゴの使節)を結成し活動。

2008年(平成20年)

満88歳の最初のコンサートは2月8日広島市内の教会で開催された「上野眞樹 テレマン連続コンサート」で「トリオ・ロス・エンバハドーレス」(ヴァイオリン 上野眞樹さん、ピアノ 伊藤智恵さん、 バンドネオン 佐川峯)として演奏。

6月28日、広島市内のゲバントホールにてソロ・演奏会を開催。
シャンソン歌手日高摩梨さんの特別賛助出演を得て17-18年振りのシャンソンとバンドネオンという懐かしい共演に「ワイン・ハウス」、「カナロ・エン・パリ」時代のお客様も大勢来場され夏の夕べの演奏を楽しまれた。

8月22日、岡山県立美術館で開催中の藤原啓・雄父子展でソロ演奏でギャラリー・コンサート実施。啓先生へ贈られた「炎のように」、雄先生のご依頼で作曲した「二つの壷」、いずれも備前焼が主役のタンゴ曲や啓先生がお好きだったアルゼンチン・タンゴ「夜明け」、そして、バンドネオンでの演奏はされることがないと思われるアメリカのジャズ「ブルー・プレリュード」の熱演など、素晴らしい演奏であった。
啓先生と2年間、雄先生とは25年以上の親交があった佐川峯さん、会場入口の藤原啓・雄父子の大きな写真の前で涙が止まらなかった。
両先生の写真と多くの備前焼の作品に囲まれての演奏、佐川峯さんにとりお幸せなひとときだったことでしょう。

9月27日:岡山市立オリエント美術館でのソロ演奏。
9月28日:倉敷市デオデオ真備店でのソロ演奏。

10月5日:広島市内のゲバントホールにてソロ・演奏会を開催。ピアノ津川のり子さんとの共演もおこなった。

2009年(平成21年)

1月7日にはNHK広島放送局での新春インタビューでのスタジオ生出演、
そして、1月9日にはRCC中国放送局でのインタビューでスタジオ生出演というスケジュールで佐川峯さんの「卆寿」の新年がスタートした。
いずれの番組も秋に控えた、「オソバルド・プグリエセに捧げる」記念コンサートの年にふさわしく、内容の充実した素晴らしい番組であった。
2009年4月から9月まで月一回、佐川さんによる「こんなに楽しいタンゴの世界」という講座がNHK文化センター(広島教室)で開かれることになった。
5月3日(日)には午後3時から倉敷市芸文館アイシアターで、
5月23日(土)には午後4時からゲバントホール(広島)においてバンドネオン・ソロ演奏会が開かれる予定で、シャンソン歌手 日高 摩梨さんが特別出演される。






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2011-05-09更新

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